この記事では百済の建国神話について解説しています。百済という国は日本とも歴史的に関係が深く、仏教や漢字など多くのものが百済を経由して日本に入ってきました。そんな百済の建国には高句麗神話の朱蒙という人物が大きく関係しているのです。高句麗の兄弟国とも言える百済。ぜひご一読ください。
高句麗の記事をまだ読まれていない方はこちらを読んでからこの記事をお読みになってください。
朱蒙の続き
高句麗の王朱蒙が、扶余の国から逃れて、卒元扶余に行くと、その地を治めていた王様には子息がおらず、3人の息女がおられましたが、王は男の王子を望んでおられました。

そんなとき朱蒙が現れ、王様は喜んで自らの娘を嫁がせ、朱蒙を跡継ぎとしました。その後王様は崩御され、朱蒙が王位を継ぎました。その後まもなくして子供が二人生まれます。
その子どもたちは、長男が沸流といい、次男が温祚といいました。

子どもたちが
やがてその子どもたちは成長しました。そこに父である朱蒙が、北扶余で設けた子供であった瑠璃とその母が逃れてやってきたのです。朱蒙はそれをとても喜び、その瑠璃を太子(跡継ぎ)としてしまったのです。

それを知った子どもたちの沸流と温祚は、もうここにはいられないと、家来を何人か連れて、南の方の漢山に隠れてしまいました。
そしてまず、山の上から自分たちが国を始めるにはどこがいいかと、眺めて考えていましたところ、お兄さんの沸流は、海の近くにとても惹かれ、そこにしないかと提案しましたが、家来は反対しました。しかしその反対を聞き入れず沸流は海浜の方へあるき出し彌鄒惣(仁川)に都を置くことにしました。
しかし、それに反し弟の温祚は家来の言うことを聞き入れ、河南の慰礼城に都を決めて、国名を十済と名付けました。

お兄さんの沸流が都とした彌鄒惣(仁川)はあまりにも湿気が多くて住むに絶えず弟が都とした土地を見て、あそこでは皆安泰に暮らしているのに、自分と一緒に来てくれた家来の皆さんに申し訳ないと言い残し、その過ちを悔いて死んでしまいました。
沸流の死後
沸流の死後、彼に仕えていた家来は慰禮に戻り、温祚に仕えることにしました。そこからは順調に国造りが進み、周りに住む百姓も喜んで従うようになったあとで、国名を十済から百済に改名しました。
こうして百済は長い歴史に幕を開けました。

百済建国時代のスポット
夢村土城
温祚が建てた城があったのではないかと言われている場所。まだ確実とは言えない状況だそうですが、おそらくここではないかとされています。ソウルの中心なのでとても行きやすいです。興味のある方はぜひ足を運んでみてください。
石村洞古墳群
そのすぐ近くには、一世紀頃のものとされる古墳群が残されています。こちらも確証はありませんが、温祚を始め当時の王族の古墳ではないかと言われています。ロッテワールドの裏という立地ですが、ジェットコースターに乗った後にぜひ行ってみてください。
まとめ
今回は百済の建国のお話をしました。この国も始まりは高句麗、また高句麗の始まりは扶余と、違う国のようで実は密接な関わりがあるというのがわかったと思います。
百済という国は日本ととても近い関係にあった国なのです。その話もぜひ今後できればと思います。百済の歴史に興味を持たれた方は、百済世界遺産センターのホームページを御覧ください。
次回は新羅の建国神話をお伝えしたいと思います。それでは。
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