今回は日本神話の国譲りと日本の転換期大化の改新についてお話します。これらのお話は一見全く別の話に見えて実は共通する部分がたくさんあるのです。日本書紀編纂と7世紀日本について古代史と神話を見比べながら論じていきます。
国譲り神話
天照大御神の怒り
天照大神はある日こんなことを思った。
「日本って私の両親が作ったんだから長女である私が治めるべきではないか」と。
当時の日本は出雲の大国主という神様が治めておりました。出雲の神は大半が国津神。天照大神を筆頭とする天津神はそれよりも格式が高く、自分たちが日本を治めるべきである!と主張したのです。
ただここまで国を発展させてきた大国主を筆頭とする出雲朝廷も易易と明け渡すわけには行きません。ただ直接対決は避けなければ。といろいろな策を巡らせる中で、ある日高天原から神が下りました。
天照の勅使の裏切り
天穂日命(あめのほひ)、天照大神の次男にあたる神が出雲に下りました。
天穂日命はオオクニヌシに対して「国を譲りなさい」と命令しますが、大国主はこう応戦しました。
「ホヒさん!私はこれまで自分のできる限りを尽くして我が日本の国造りに励んできました。だから譲れと言われて譲れるもんではないのです。ただその代わり、天津神と国つ神手を取り合って国造りをしませんか?」
この言葉に天穂日命は感銘を受け、「いいアイデアだ!」よし一緒にやろう!ということで出雲に住み着き、現在でも出雲大社を代々守る出雲国造の祖となっています。
これを聞いた天照は、次の勅使を送ります。それがアメノワカヒコです。
アメノワカヒコは天照大神から弓矢を授かって出雲に下りましたが、大国主に自分の娘と結婚するよう頼まれ、結婚してしまいワカヒコも出雲に住み着くことになります。
これでは埒が明かないと高天原では会議が始まります。
最強武神達上陸
高天原ではみんなのリーダーで天照も信頼をおいていた天児屋命(アメノコヤネ)が最強の武神を出雲に送ることを進言し、天照大神も賛同。
そこで送られたのが、武御雷神(タケミカヅチ)と経津主神(フツヌシ)です。
二人は最強の武神で、剣の上であぐらをかけるほどでした。
さあ二人が大国主の住む出雲の宮殿にやってきました。
同じ要求を行います。「国を譲れ」。
大国主も今回はもう逃れられないと、自分の息子に応戦させることにしました。その息子が七福神の一柱としても有名な恵比寿でした。ただ彼は戦いなど好まず逃げてしまいます。そして次男で諏訪大社の祭神としても有名なタケミナカタが登場します。
それら神々の間で戦争が始まるのです。
いざ決戦
武御雷神対建御名方 勝利したのは武御雷!圧勝でした。
建御名方は現在の諏訪大社のある当たりで降参し、諏訪に住み着いたと言われています。
国譲り
その知らせを聞いた大国主はこう言いました。
「わかりました。国を譲りましょう。私達の負けです。でも私の功績と出雲の繁栄を後世に残すために大きな神殿に私を祀ってください。」とお願いします。
その神殿こそが現代でも多くの参拝客が訪れる出雲大社です。
その後、天照大御神に国の統治権がわたりその統治権を彼女の孫である瓊々杵命(ニニギノミコト)が授かり、葦原に下るのです。その血統が現在の天皇までつながっている。これが国譲り、天孫降臨神話に当たる部分です。
大化の改新
大化とは日本で始めの元号です。今は令和という時代ですが、この元号というものが日本で使われ始めたのはこの時代ということになります。この時代は我が国にとって大変大きなターニングポイントになった時代であると私は思います。
中大兄皇子の乙巳の変
ある日中大兄皇子と、中臣鎌足が、蘇我入鹿を殺害したクーデター、乙巳の変が起こりました。
蘇我氏から実権を奪うことから始まった大化の改新。どうして蘇我氏から実権を奪うことが必要だったのか。深掘りします。
当時の世界情勢
当時のアジアは言うまでもなく中国大唐帝国が権力を振るっていました。当時唐が支配領域を拡大していく中で、最終的に日本も手中に収めようと考えていたのです。その手始めに朝鮮半島の唐化をおこなていました。
やりかたはこうです。当時の朝鮮には高句麗、新羅、百済の三カ国が存在しており、新羅と協力し百済と高句麗を潰し、その次に日本と協力して新羅を倒し、その後日本を潰すという作戦でした。
当時の日本は蘇我氏が実験を握っていましたが、蘇我氏は親中路線で外交を行っていました。これに対して反旗を翻したのが、大海人皇子や中大兄皇子や中臣の一族でした。一説によればこの唐の計画を熟知し国際情勢に詳しかったとされる大海人皇子は百済の王族の出なのではないかともいわれます。
唐に負けない国造りをするために外交政策を転換していくために大化の改新が行われました。
改革 大化の改新
内政では主に、中央集権国家体制を生み出すために様々な政策が行われました。
例えば国群里制度や、租庸調制度などの税金制度、国の土地と国民は天皇に属するという公地公民制や班田収授法などです。
そんなとき大事件が起こる
日本の古くからの友好国である百済が滅亡してしまうのです。百済と同盟関係にあった日本は軍を出して、白村江を代表する戦いで応戦しますが、唐と新羅の武力の強さに圧倒され、結局日本は負けてしまいます。
百済の王族や人民は日本に難民として流入し、より唐との戦争が現実化する中で、天智天皇(中大兄皇子)が即位し国防に力を入れました。
藤原不比等という人
壬申の乱などひと悶着あった後で、とんでもない人物が朝廷で権力を握ります。それが藤原不比等です。
人生
彼は中臣鎌足の息子でありますが、決して親の七光りで朝廷で権力を振るったわけではありません。壬申の乱で天智天皇の息子である弘文天皇側についた藤原氏の地位は没落し、ゼロからのスタートでしたが、底辺からの仕上がり自らの娘と天皇を結婚させることで権力をふるいました。
今日の藤原氏の栄華はこの藤原不比等から始まったと言っても過言ではありません。
彼はより唐に舐められない国造りを行っていきます。唐に国としてみとめてもらうために主に3つのことに注力しました。それが、法律、国史、都の整備でした。
法律に関して大宝律令を701年に完成させ、710年には唐の都長安に習った荘厳な平城京を作り上げました。
最後に残るのが国史の編纂でした。
国史編纂
藤原不比等が特に注視したのが、日本書紀の編纂です。他にも古事記という書物が日本には残っていますが、古事記よりも日本書紀のほうが正当な流れを持つと言われています。
というのも、古事記は日本国民向け、日本書紀は海外向けということで、当時不比等が目指した日本を国として他国に認めてもらうという目的を果たすのは日本書紀であるからです。
この日本書紀も720年に完成させ、日本が独自のルーツを持って建国され、発展を遂げてきたことが本の中で示されました。
平城京と春日大社
平城京にはこの都を守る神社があります。それが春日大社です。春日大社は藤原不比等が都と藤原氏の発展のために作ったのが始まりとされています。
この神社の祭神は
武御雷(鹿島大神・藤原氏神)
経津主神(香取大神・藤原氏神)
天児屋命(藤原氏の祖)
比売神(天児屋命の妻:天照?)
ということになっていますが、なにか気づくことはありませんか?
そうです国譲り神話に出てきた神様と同じなのです。
共通点とは
ここからは私の考えですが、
国譲り神話は大化の改新に影響された話なのではないかと思います。
蘇我氏から権力を奪うために立ち上がった中大兄皇子と中臣鎌足
出雲から権力を取り戻すために立ち上がった武御雷と経津主
実は経津主神は古事記には登場せず、日本書紀にしか現れないのです。
もしかすと不比等は自らの父の偉業を日本の歴史に残すために、経津主神を日本書紀に登場させたのかもしれません。
そう考えると実にしっくり来ませんか。
ゆかりの場所
春日大社
平城宮
出雲大社
まとめ
今回は大化の改新と国譲り神話の共通点について論じました。
今後も日本とアジアに関連する古代史なども紹介していきます。
以上
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