[歴史]日本とマレーシア(シンガポールも含む)関係について解説!

アジア

皆さんこんにちは!伊勢大輔です。今回は日本とマレーシア(シンガポール、ブルネイ)の関係についてお話します。まずなぜ今回マレーシア(シンガポール)なのかというと、これらの国はもともとは同じ国というと語弊があるのですが、同じ地域に含まれていたためです。ただ今回はマレーシアにフォーカスしてお話を進めていきます。

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マレーシアの基本情報

マレーシアは東南アジアのちょうど真ん中あたり、マレー半島の南側と、ボルネオ島の北側を領土とする国家です。

マレーシア 国旗

マレーシアはその歴史から他民族国家で大きく分けて、マレー系、インド系と中華系の計三つの人種がそれぞれ生活をしています。そのため国の中で言語や宗教も異なりますが、お多賀に尊重しあいながら共生しています。私はマレーシアに生活していますが、日本人としてとても不思議に感じてしまいます。ただこれはマレーシアのいいところであり強みの一つともいえます。

マレーシアの中国寺院 天後宮

マレーシアは東南アジアの中では大変裕福な国で、KLのシンボルペトロナスツインタワーも大変すばらしいです。また現在世界で二番目に高い高層ビルが建設中です。まだまだ発展が楽しみな国家です。

KLの中心部にあるペトロナスツインタワー
建設中の700メートル級ビル Merdeka 118

今回はこんなマレーシアと日本の関係についてお話を進めていきます!!

マレーシアの歴史

マレーシアの歴史は大変長いですが今回は大まかにご説明します。

マラッカ王国

今のマラッカと呼ばれる地域に15世紀ごろに誕生した国家がマラッカ王国です。このマラッカ王国は貿易の要所として栄えました。マラッカ王国はマラッカ海峡を通る船の経由地となり、財を成しました。この地は日本人にとっても大変なじみの深い地です。我々が必ず歴史で習う偉人、フランシスコザビエルと彼が日本に来る原因となった日本人、弥次郎という方が初めて会った場所なのです。また鉄砲はポルトガルから種子島に伝来したと言われていますが、実際のところ、マラッカからポルトガル人によって種子島にもたらされたと言われます。この鉄砲は織田信長が長篠の戦いで使用したあの鉄砲ですが、別名マラッカ鉄砲とも呼ばれるのです。このようにマラッカと日本は意外と関係の深い間柄なのです。

植民地

ただ当時の西洋列強はこのようにお金になる素晴らしい土地を野放しにしているわけがありません。ポルトガル、オランダなど多くの列強がマラッカにやってきて、植民地にしてしまいます。その後は英国がやってきて、マラッカのみならず、マレーシア全土を掌握します。その後第二次世界大戦がはじまり、日本も戦争に突入していきますが、マレーシアは日本によって統治された期間があったのです。

日本の太平洋戦争の始まりとして、帝国海軍による真珠湾攻撃はあまりにも有名ですが、実はその数時間前に帝国陸軍がマレー半島で侵攻を開始しています。これがマレー作戦という作戦です。

マレー作戦

結果から言うと日本軍のマレー作戦は大成功をおさめました。難攻不落と言われたシンガポールの要塞をも落とし、日本は実質的にマレーシアシンガポールでの権益を獲得します。いつの時代も西洋に統治され、自信を無くしていたマレーシアの人々もアジア人である日本が次々に英国軍を破っているのを見て皆が日本を応援したといいます。

特にシンガポールは日本にとって大変重要な要所となったため、名前を沼南島という名前に改名し昭南神社などが作られました。ここからいかに日本がシンガポールを重要な拠点としたかがうかがえます。というのも当時日本は大東亜共栄圏という政策において、アジア人のためのアジアを作ろうと躍起になっていました。このシンガポール陥落は日本にとって東南アジアにも日本の権益を広める重要な一手だったのです。

ただこの統治の歴史が日本とマレーシア、シンガポール、ブルネイとの確執をうんでいます。どのような歴史があったのか、次の項で見ていきます。

日本統治の歴史

前提の話

 このような歴史を見ていくとき、日本が加害者であり、もちろん悪いのは日本なのですが、日本を盲目的に批判するのみの方が散見されます。ただ歴史背景を見てみると、なぜ日本がこのような状況に至ったのかなどが見えてくるので、この項では前提の話をしておきたいと思います。

日中関係

 当時日本は朝鮮半島、台湾、山東半島などを手中に収め、その勢力を満州にまで広げました。それが原因となり起こったのが日中戦争です。これに関しても日本が100パーセント悪いですが勝手に軍事演習をした挙句、自作自演で戦争にして、最終的に中国大陸も手中に収めようと考えていたのです。ただその夢はかないませんでした。欧米諸国が中国を支援したのです。これが大本の原因となって石油資源の禁輸政策などが行われ、日本がインドシナに侵攻するきっかけになりました。ここまでが太平洋戦争(大東亜戦争)への流れですが、満州事変以降、日中戦争前後の中華人による日本や日本人への目は厳しいものになっていました。

歴史について

マレーのトラ① 谷豊

当時からマレーシアには少数の日本人が住んでいました。彼らは日本人街を作り、日本から出て海外での生活をしていました。そんな当時のマレーシアに住んでいたのが谷豊という方です。谷豊さんは別名マレーのトラとも呼ばれます。どうしてそのように呼ばれるようになったのかなど解説していきます。

谷豊さんの家は理髪店を営んでおり、彼には妹がいました。谷豊さんは幼少期地域ではリーダーのような存在で、マレー語に堪能で多くのマレー人との人脈を持っていました。学生になるときに日本に帰国し、日本で学校に通い兵役検査などを受け、日本で働きました。そんな折に大変なニュースが彼の耳に入ります。

マレーシアの中国人が日本人を殺害している。というものでした。それによって彼の妹は殺害され無残な姿で発見されました。それをきいた豊はすぐにマレーシアに向かい当時からの仲間ともに盗賊として、中華系の人々に復讐をしていました。

日本がマレー作戦を企てているとき、耳に入ったのが、日本人が盗賊としてマレーシアで活躍しているという噂でした。そこで日本軍は谷豊に声をかけ、諜報員として日本軍の一員となったのです。そして彼とその仲間の工作によってお膳立てがなされ、ついに日本軍がマレー半島コタバルに上陸します。それを指揮するのが次の項マレーのトラ二人目の山下奉文陸軍大将です。

マレーのトラ② 山下奉文大将

山下大将はマレー作戦を指揮し、最短でシンガポール陥落に導いた方です。彼はどのようにマレー作戦を行い最短でマレー半島を攻略したのか。それを説明していきます。

当時イギリスはシンガポールの海辺に要塞を築いてシンガポールを守っていたのです。この要塞は当時世界最強ともいわれた要塞で、海から攻めることはほぼ不可能でした。ただ日本は海軍がとても強く、常識的に言えば、海から攻めいるということがなされるであろうと誰もが予想していました。

ただ日本は山下大将は、発想の転換で逆側から、陸から攻めたのです。その不意を突き見事日本はシンガポールを陥落しました。

その後、英国との明け渡しの会議で渋っていた英国側に対して、Yes or Noで答えろと言ったというのはとても有名な話です。

シンガポールシロソ砦にあるろう人形 旧フォード工場での会議を再現している

統治期の歴史

 英国が去ったのち、日本はこの地域を支配します。特にシンガポールではいわゆる皇民化政策さながらの政策が行われます。日章旗の掲揚、君が代の斉唱、教育勅語の奉読や宮城遥拝などが行われ、日本語教育などが徹底されました。ただ日本語だけを学ばせるのではなく、現地の言葉や、現地の文化なども積極的に学ばせました。また現地人による軍を創設し訓練にもお金を使いました。

 結果的にこの統治政策は失敗に終わっています。大きな失敗点としては軍票の乱発によるインフレと、欧米諸国とやり取りをしていた現地の人々の失業です。そしてそれによって深刻なもの、食糧不足が起きました。これによって多くの人々が苦しみまた、亡くなられた方も多くいらっしゃいます。

華僑大虐殺事件

この統治下で起こった忘れてはならない事件は、華僑虐殺事件です。我々日本人にはあまりなじみのない言葉かもしれませんが、シンガポールのあたりに住んでいた華僑の方々を検査し、本国に忠誠心のある人間などを粛清したといったことです。

日本政府の発表では6000人の方が殺害されたということですが、シンガポールは2万人以上の人々が殺害されていると発表しています。

もちろんこの当時は先ほど前提でお話ししたように、日中戦争でいがみ合っていた時期、一般人がいきなり日本軍に攻撃を仕掛けることもあり、マレーシアでの統治をうまく行うために必要なことであったということは一つ言えるとは思いますが、このような虐殺が起きていたということを私たち日本人は忘れてはなりません。

この華僑虐殺事件で殺された方々を慰霊できる場所が、シンガポールのチャップスティックと呼ばれる慰霊塔です。シンガポールに行かれた際はぜひ行ってみてはいかがでしょうか。

戦後の歴史

戦後日本は、アジア諸国から撤退し、連合国の占領下に入ります。マレーシアにもかつての宗主国英国が返ってきます。ただすでに日本の快進撃を見てきたマレーシアの人々はそれを義人はしませんでした。すぐに反対運動がおこり、長い年月をかけて戦争が終わって10年以上たってマレーシアはついに独立を果たしました。

日本はもちろん悪いことを散々して、多くの方々が日本のせいで犠牲になりました。ただこれらマレーシアのみならず、アジア諸国の独立には日本の存在が不可欠であったことは今回強調したいことです。

マレーシアの議員ノンチックさんは日本に留学経験もある親日家で、当時「日本はアジアのために戦い疲れて破れた。今度はわれわれマレー人が自分の戦いとして、これを引き継ぐのだ」同じアジア人にできたのだから、私たちにもできる。と意気込んで、実際に独立を手にしました。そして彼とその他の日本に留学経験のある方々が作った枠組みがASEANです。日本の大東亜共栄圏を引き継ぎ、今でも当時の日本が東南アジアで生きています。

またその後に誕生したマハティール首相も大変な親日家で、もし日本なかりせば、世界は違うものであっただろうともおっしゃられています。

こういったことから、悪い歴史がありながらも、我々日本とマレーシアは今現在大変良好な関係を築いています。

さいごに

Never forget, but always forgive というシンガポール初代首相リークアンユーさんの言葉があります。ゆるそうしかし忘れない。もちろん歴史は忘れてはいけませんし、何人たりともこの歴史を肯定するようなことがあってはなりません。ただいつまでもそれに執着し、謝罪を続けるのは誰にとっても利益になりません。私たちは歴史を伝え、このようなことを再び起こさないことを誓い、これからもアジア諸国とよい関係が築いていけるとより良いものになるのかなと思います。

最後になりますが、日本の統治によって、亡くなられたマレーシアの方々、また国のために戦い命を落とされた軍人に敬意と哀悼の意を表します。

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